ノルウェーの99%にまなぶ

占拠ムーブメントは今後どこを目指すのだろうか。
市民集団が、暴力に訴えることなく民主主義と経済正義を勝ち取った、
他国の例を考察してみたい。

たとえば、スウェーデンとノルウェーは1930年代、
長い非暴力の苦闘の末に大きなパワーシフトを経験した。
「1%」のクビをはね、新たなしくみを作り上げるのに成功している。

両国に共通するのは、極度の貧困の歴史である。
「1%」の管理下にあったころ、飢餓に耐えかねて国外に移住した人も多い。
そのような状況から、労働者階級のリーダーシップが両国の経済を頑強に立て直した。
大学教育を無料で受けられ、貧困地区は撲滅され、手厚い健康保険が提供され、
誰も仕事を失うことのない社会基盤がつくられた。
CIAの「ワールド・ファクトブック」は両国の現在を「望ましい生活水準」であると認めている。

とはいえ、どちらの国もユートピアではない。
左派の知識人には、スウェーデン、ノルウェー社会はまだまだ公正でないと考える者もいる。
けれど、1959年に初めて一学生としてノルウェーを訪れたアメリカ人活動家から見ると、
かれらの偉業に驚嘆するほかない。

今でも覚えているのだが、当時は小さな工業街を自転車で走っても走っても、粗末な住まいが並ぶばかりだった。
現在のあまりの変貌ぶりには、どんな要因を捻り出しても足らない気がする。
「国が小さい」「単一民族国家」「国民の価値観が均質」...
やはり、既知の枠組みでこの成功例を説明するよりは、
ほんとうの理由、かれらの歴史を学んだほうがよさそうだ。

スウェーデン人、ノルウェー人は、非暴力運動を通して生活水準向上の対価を払っている。
スカンジナビアの労働者は、選挙制度に期待していなかった。
選挙による「民主主義」は「1%」によって整備されたものだから、
直接的なアクションなしで変革はありえないと考えたのだ。

軍隊は、「1%」を防御するために出動した。
犠牲者が出た。
スウェーデンのフィルムメーカー ボー・ヴィーデルベリは"Ådalen 31"で、
1931年に殺された活動者たちのこと、そして瞬時に全国に拡大したゼネストを活写している。
(この事件については、"the Global Nonviolent Action Database"の Max Rennebohmの寄稿に詳しい)

ノルウェー人は、ムーブメントを組織する過程でさらに苦労している。
当時のノルウェーには、人口わずか300万人がイギリスよりも広大な国土に散らばっていたからだ。
国民の往来は山々とフィヨルドで分断され、
孤立した峡谷の住人は独特の地域語を話すありさま。

19世紀、ノルウェーはデンマーク、次いでスウェーデンに統治されていた。
ヨーロッパの文脈においてノルウェー人は存在感のない田舎者だったのであり、
やっと独立を果たしたのは1905年のことである。

1900年代初頭に発足した労働者ユニオンは、
革命と利権を求めて組織され、
メンバーはマルクス主義に傾倒していた。
かれらはロシア皇帝の退位に歓喜し、ノルウェー労働党はレーニンのコミンテルンに加わった。
ただ、活動は長くは続かなかった。
レーニン戦略では欠かせない、暴力に関わるのを嫌ったのだ。
ノルウェー人は、選挙を通じた非暴力の革命を望んだ。

ストライキは1920年代に入って活発に起こった。
ハンメルフェストの町は1921年に労働者会議が率いるコミューンを組織した。
当然のように軍隊が介入し、
労働者の反響は全国的なゼネラルストライキに拡大した。
国家をバックにつけた雇用者は烈しく応戦したが、
1923年から24年にかけては再び鉄工のストライキが勃発した。

ついにノルウェーの「1%」は、軍に頼るのをやめ、
1926年、主に中産階級からメンバーを集めて「愛国リーグ」と呼ばれる社会運動を起こした。
1930年代までにリーグには10万人が参加し、ストに参加しない人たちの援護に回った。
人口わずか300万の国でのことである。

その間に労働党は、勤務先を問わずすべての人に門戸を開いた。
中産階級のマルクス主義者や、一部の改革論者たちが新たに加入し、
その他、地方に散らばる多数の農業従事者や小規模の地主も労働党に加わった。
先導者は、闘争が長引く中、継続的に各地に手を広げ組織化を進めることが、
非暴力キャンペーンの核になると考えていた。
分裂が拡大していったところで、
ノルウェーの労働者は1928年、また新たなストライキ、ボイコットのうねりを起こした。

不況は1931年に底を打った。
他の北欧諸国と比しても、ずっと多くの失業者が町にあふれた。アメリカと違い、ノルウェーのユニオンムーブメントは、無職で会費を払えない人たちも排除せず、
その決断は、大規模なアクションを起こす際に奏功した。
経営者連合が、賃金引下げのため工場からの締め出しをはかったとき、
労働者は強大なデモを組織して迎え撃った。

住宅ローンの危うさに気づきはじめる人も増えた。
不況が長引き、農民は借金を返済できなくなった。
騒乱が農家に及ぶと、人びとは農地からの立ち退き命令に対し、非暴力でたたかった。
大規模な農民集団を抱え、かつて保守党と提携していた農民党は、
「1%」から距離をおきはじめた。
いったい何を理由に、少数派のかれらが多数派の上に君臨しているのか?

1935年までに、ノルウェーは崖っぷちに追い込まれることになる。
保守派率いる政府の正当性は日々失われ、
労働者と農民の闘志が強まるにつれ、次第に「1%」はすてばちになっていった。
活動家は考えた、「数年以内に政府は完全に転覆する」。

とはいえ、貧困層の困窮は今日明日のことであり、
労働党はメンバーからの大きなプレッシャーを感じていた。
政府と妥協する時がきていた。

そのときの経緯。
事業オーナーには、企業の経営権をキープさせるという条件で、
労働党は1935年、農業党と連合で政権を握った。
かれらは経済に力を入れ、ノルウェーの経済政策のかなめとなる完全雇用の実現に向け、公共事業をスタートさせた。
労働党の成功と労働者の熱意が、「1%」の特権に食い込んだ。
すべての大企業の経営権を公共財として認めさせたほどである。

「1%」はこうして経済、社会に対する影響力を失った。
ただ、政府連合に戻った保守党が、新しいルールを受け入れるまでに、
30年あまりを要した。
生産利益の高い割合の公共化、
進歩的な課税制度、
公共の福祉と貧困の撲滅のためのビジネス規制といった、極度に斬新なルールである。
保守党がついにネオリベに手をのばしたとき、
経済成長は空洞化し、破綻への道をたどった。

3つのメガバンクを手中に収めていた労働党は即座に介入し、
経営者を解雇、株主には一銭の補償もせず、
他の銀行を一切救済しなかった。
すっかりスリムになったノルウェー金融界は、2008年のリーマンショックにもビクともしなかった。
公共財として慎重に守られている銀行は、磐石である。

ノルウェー人はことさらに言い立てないかもしれないけれど、
かれらの自由と、国のすみずみまで分かち合われている繁栄は、
労働者と農民が自ら非暴力闘争を起こし、
地域社会の利益に重きをおく政府を切望して勝ち得たものなのである。

By George Lakey  OccupyLA.org 1/27/2012付
HOW SWEDES AND NORWEGIANS BROKE THE POWER OF THE ‘1 PERCENT’

日本の99%
かつては政権を倒したこともある日本の市民運動。
東日本大震災以降は、反原発デモに1万人以上が加わっている。
ひとりひとりの強い当事者意識が、規模の持続に寄与している。

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